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更新日付:2021年4月29日 / ページ番号:C073486
江戸時代には、庶民のレクリエーションを兼ねて信仰による巡拝が行われるようになり、狭い地域だけで巡る百観音や百不動が創設されます。
その中で、さいたま市から蕨市・戸田市にかけての荒川左岸沿いには「足立八十八ケ所」「四国八十八ケ所」と刻まれた石造物が複数存在しています。
江戸時代中期から後期にかけての年号が刻まれていますが、その多くが江戸時代後半の天保5年(1834)の年紀を持ち、四国八十八ケ所第何番の寺を写したとの旨が刻まれているのが特徴です。
(大戸・不動堂、「弘法大師一千年忌供養塔」) (上落合・地蔵堂)
このような石造物はこの地域に40ケ所近く確認されており、大戸・不動堂の「弘法大師一千年忌供養塔」には四国八十八ケ所の第22番である阿波国平等寺を移したとあります。
四国八十八ケ所の観音霊場を写す形で、足立八十八ケ所の弘法大師霊場の巡拝(第1番は与野の圓乘院)が行われていたことを意味しています。
この観音霊場巡り自体は宝暦10年(1760)に開創されたようですが、天保5年3月21日という年紀や「弘法大師一千年忌」と彫られるものが多いことを考えると、同日の弘法大師の一千年遠忌を契機としてそれまであった足立八十八ケ所の巡礼が整備されて多くの石塔が建立されたことが想像されます。
(本町西・圓乘院、「弘法大師千年忌供養塔」) (西区植田谷本・林光寺)
これまでに判明している寺堂を結ぶとほぼ一筆書きで巡拝できるようで、「是ヨリ観音寺江廿丁余」「四十一番江十八町」などとあることから、この石造物は巡拝の道標も兼ねていたと考えられます(全体リストは下の添付ファイルにて)。
このことに関しては、『与野郷土資料館開館記念図録』の中で触れられています。
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