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更新日付:2021年7月31日 / ページ番号:C073585
中央区本町東4丁目の、赤山道が鴻沼川を渡る赤山橋の西詰南側に存在しています。
高さは234cm、幅38cmで、上部は唐面取りを施した石柱です。
正面は上部に薬研掘りで「石橋供養塔」と大書し、下部には導師や願主の名を刻んでいます。
右側面には5行10段にわたり、下落合村、上落合村など50の村名とともに、「石工高内源太郎」などの個人名が、左側面には 5行10段にわたり、円阿弥村、八王子村など50の村名とともに、浦和町や与野町の個人名が見られます。
また、背面には「享保十一丙午天(1726) 初夏廿有三日」とあるほか、いずれも付近の寺院名と個人名、数ケ村の村名を刻んでいます。
(赤山橋の石橋供養塔)
石橋の建立年代からすると、見沼干拓と並行して行われた高沼干拓の直前であり、「高沼」に流れ込む切敷川への架橋ということになります。
享保11年(1726)4月の「与野領絵図」に該当する石橋の記載がありますが、この石橋供養塔の建立も享保11年4月であり、絵図作成と石橋建立は同年月となります。
(享保11年の与野領絵図。左右に走る道が赤山道で、川に橋が架かっている様子が描かれている)
銘文中、100に及ぶ村名は勧化(寄付)に応じた村々で、現在の中央区は言うに及ばず、桜区、西区、北区、大宮区、浦和区、緑区、南区、上尾市、川口市、戸田市という広範囲にわたっています。
この石橋の重要性や利用者の範囲を反映したものと考えられます。
なお、これ以前の元禄7年(1694)の村絵図にも同じ場所に橋が描かれており、以前からこの場所に橋が架けられていたことがわかります。
現存するこの石橋供養塔は、確認できるものでは市内最古の建立です(市内の石橋供養塔リストは下の添付ファイルにて)。
石橋供養塔については、「与野郷土資料館開館記念図録」で触れられています。
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