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更新日付:2021年4月29日 / ページ番号:C079137
【高沼用水路とは?】(高沼用水路全体概念図はこちら)
高沼用水路は、大宮区北袋の地で見沼代用水路西縁から分岐すると(見沼代用水路についての解説は「与野郷土資料館展示web解説(その23)」)、与野を斜めに横断して、鴨川へと合流していきます。
見沼代用水路と同様に、江戸時代の中頃の井澤弥惣兵衛為永の手によるもので、それまで沼であった「高沼」を干拓して農地にするために引かれた農業用水路です。
【見沼代用水路からの分岐】(添付全体概念図1)
北袋の地から、高沼用水路の旅は始まります。
北袋で取水された高沼用水路は、しばらくは開渠で住宅地の間をすり抜けるようにして南西へ流れ、産業道路や新都心東通りを経て、やがて旧中山道と交差します。
北袋の取水口
写真手前右から左へ見沼代用水路西縁。
ここで取水して、写真奥へ高沼用水路が流れる。
取水後すぐの高沼用水路
水は手前から奥へ。
しかし、最初は見えていた高沼用水路も、さいたま新都心駅東側では用水の流れを実際に見ることはできません。
それは暗渠になっているからです。
さいたま新都心駅東側の様子(東から西を見る、奥に左右に旧中山道が走る)
現在は遊歩道になっており、下を高沼用水路が流れている。
【高台橋で中山道を越える】
さいたま新都心駅の東口、旧中山道に「高台橋」が架かっています。
ここで高沼用水路は旧中山道と交差しますが、実際に「高台橋」を見ることはできません。
それは、旧中山道の下に「高台橋」があるからです。
さいたま新都心駅のホーム南側に立つと、下の写真のようなレンガ造りの橋を見ることができます。これが「高台橋」です。
レンガ造りの「高台橋」
写真中央が「高台橋」で、橋の下、奥から手前に高沼用水路。
上を左右に通過するのが旧中山道。
明治時代の「高台橋」の様子
右から左下の堀が高沼用水路、上に架かるのが高台橋と旧中山道。
【開渠で住宅地の間を進む】
「高台橋」に続いて、暗渠のまま高沼用水路はさいたま新都心の下を流れ、そのはずれ、県立小児医療センター西側で地上に姿を現します。
さいたま新都心西側で地上に現れた高沼用水路
写真手前がさいたま新都心、水は手前から写真奥へ。
昭和21年に米軍が撮影した航空写真でもその様子が示されています(地点A)。(写真はこちら)
【高谷橋の石橋供養塔】
地上に現れた高沼用水路は、間もなく与野東中の脇を通ります。
ここにはかつて石橋が架けられていたようで、正門わきに石橋供養塔が今でも残されています。
この石橋は、宝暦6年(1756)に完成した石橋を記念したもので、90近い町村が費用を出し合い、石橋と交通の安全を願ったものです。
市内の石橋供養塔については、「与野郷土資料館展示web解説(その2)」でも触れています(市内の石橋供養塔リストはこちら)。
与野東中の脇を通過する高沼用水路(写真右ガードレールの下)
左が与野東中。
昭和21年に米軍が撮影した航空写真でもその様子が示されています(地点B)。(写真はこちら)
与野東中正門脇の石橋供養塔
【高沼用水路の東西分岐】(添付全体概念図2)
高沼用水路は国道17号線を越え、しばらく住宅地の間を流れた後、たつみ通り付近で東西に分岐します。
高沼用水路の東西分流
写真右から中央へ高沼用水路の流れ。
中央付近で分流し、一手は左上へ(高沼用水路西縁)、一手は左下へ(高沼用水路東縁)。
見沼代用水路の上尾市瓦葺での東西分岐は単に東西二手に分岐していますが、高沼用水路の分岐は複雑です。
昭和21年に米軍が撮影した航空写真でもその様子が示されています(地点C)(写真はこちら)
国道17号線を越した高沼用水路は南下し、たつみ通りに接すると、そのまま南下する流路(高沼用水路東縁)と一旦北上して鴻沼川を越えてから南下する水路(高沼用水路西縁)とたつみ通りと並行してそのまま西へ流れて西縁と合流する水路があったことが分かります。
今では当時の様相とは違って一部暗渠になっていますが、その名残を見てとることが可能です。
【西縁が鴻沼川を越す】
高沼用水路西縁は分岐した後一旦北上し、鴻沼川を越します。
西縁が鴻沼川を越す手前の現在の様子(たつみ通りの北側)
奥に右から鴻沼川。
明らかに不自然な空間が残り、ここにかつて西縁が流れていたと考えられる。
昭和21年に米軍が撮影した航空写真でもその様子が示されています(地点D)。(写真はこちら)
西縁が鴻沼川を越える地点の様子(中央が上の写真部分)
上の写真の場所を反対側(鴻沼川側)から見ている。
鴻沼川は左から右へ流れて、中央の河川敷に開いているのが写真奥から流れる西縁の名残と考えられる。
昭和21年に米軍が撮影した航空写真でもその様子が示されています(地点E)。(写真はこちら)
かつて高沼用水路西縁がここを流れていた(左の写真の手前が鴻沼川、左の写真の左側が右の写真につながる)
西縁は鴻沼川を越えた後(左写真の手前)、左(南)へ屈曲して流れ、写真右につながって、その奥(南)に流れていた(今では道路・暗渠)。
昭和21年に米軍が撮影した航空写真でもその様子が示されています(地点F)。(写真はこちら)
西縁はたつみ通りを越えると開渠になり、JR埼京線の線路に沿うように住宅地の中を南に向かって流れていきます。
たつみ通りを越えた西縁の様子
写真左側がかつての「高沼」地区、流れは写真手前から奥へ進む。
【東縁が下流の地を潤す】
高沼用水路はたつみ通りで東西に分岐した後、東縁は住宅地の間を縫うように南下します。
見沼代用水路と同様に、本来は「高沼」を干拓した灌漑用水として、東西から農業用水を供給するためでした。
現在では、たつみ通りを暗渠で越し、かつての「高沼」を干拓してできた地を潤しながら、桜区西堀へと進んでいきます。
分岐後の東縁(写真左側がかつての「高沼」地区、流れは写真奥から手前へ)
【鴻沼川】
「鴻沼川」は現在のJR埼京線日進駅東方から発する河川で、かつては干拓される前の「高沼」に注ぎこんでいました。
「切引川」「霧敷川」「鴻沼排水路」などといった表記もされますが、現在は「一級河川鴻沼川」と呼称されます。
この鴻沼川は干拓された「高沼」地域の中央を南下した後、西へその流れを転じ、高沼用水路と合流した後、最後は鴨川でその旅を終わります。
見沼田んぼの「芝川」と同様に、悪水(余剰水)の排水という役目を果たしていました。
「鴻沼川の様子」(流れは写真奥から手前へ)
かつての「高沼」の中央を直線的に流れる「鴻沼川」。
両岸には桜が植えられ、時期には市民の眼を楽しませる。
江戸時代の鴻沼川と高沼用水路西縁の様子
写真左端の直線(茶色)が鴻沼川(下から上へ)で、中央やや左で湾曲して流れるのが西縁(茶色、下から上へ)、赤の直線が本町通り。
この絵図を見ると、「高沼」を干拓してできた新田が南北に広がっていたことが分かります(鈴谷村絵図、個人蔵、南北をさかさまにしてあります)。
【高沼用水路が鴻沼川に合流する】(添付全体概念図3)
桜区西堀の地で、高沼用水路は鴻沼川と合流します。
高沼用水西縁・東縁と鴻沼川との合流地点
中央手前から奥へ鴻沼川。
左右の土手から東縁(左側)、西縁(右側)が鴻沼川に流れ込んでいる。
水しぶきが上がっているのが見て取れる。
高沼樋管
西縁が鴻沼川に合流する地点に設置されている樋管。写真手前が鴻沼川、樋管の奥から手前に西縁が流れる。
鴻沼川の水位上昇で、西縁へ水が逆流するのを防ぐ目的がある。
【鴨川との合流】(添付全体概念図4)
高沼用水東縁・西縁と合流した鴻沼川は、その後、桜消防署脇を通過し、新大宮バイパスの下をくぐり、桜区大字田島の地で鴨川と合流します。
鴨川との合流地点
手前から奥に鴻沼川、中央の高沼樋門で鴨川に合流。
鴨川は、樋門奥で右から左へ流れている。
教育委員会事務局/生涯学習部/博物館
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