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更新日付:2021年6月23日 / ページ番号:C080931
今でも夏になると多くの人が富士山を目指しますが、江戸時代でも西方に秀麗な姿を望む日本一の山「富士山」への登山は人気がありました。
当時は、参詣人を案内するとともに宿泊などの世話をする「御師」(おし)と呼ばれる人たちの活動もあり、行楽という面より富士山の持つ超自然的な霊力を得るという信仰としての登山でした。
各地に富士講という講社が組織され、人々は講の仲間と共に富士登山を行ったり、実際に登山できない人は、村の中に「富士塚」と呼ばれる塚を築いて、そこに登ってそこから富士山を遠く遥拝したりしていました。
「富士塚」は各地に存在し、さいたま市近隣では木曽呂の富士塚(川口市、概要はこちら(新しいウィンドウで開きます)から)や田子山富士塚(志木市、概要はこちら(新しいウィンドウで開きます)から)が有名で、いずれも国の重要有形民俗文化財に指定されています。
これらの富士塚からは、今でも富士山を望むことができます(ビルなどで眺望がさえぎられている場合もありますが)。
田子山富士塚(志木市)
典型的な富士塚では、富士信仰に関わる石造物や「黒ぼく」と呼ばれる富士山の溶岩塊、富士登山道を模したつづら折りの登山道に何合目と記した石が設置されるなど、まさに富士山と同様の様相を呈しています。
また、市内各地にある浅間神社も、富士山を神格化した「浅間神」や「木花咲耶姫命」(このはなさくやひめのみこと)という神話に登場する神を身近に祀ったものになります。
与野地域に築かれた富士塚としては、八王子の浅間神社(八王子神社)境内のものと、与野公園内のスリバチ山が挙げられます。
このうち浅間神社の富士塚は、神社境内の東側の奥まった場所に所在し、高さ約5m、直径が約12mの円形で、正面(西側)には31段の石段(昭和4年造)があります。
頂上には、石工井原赤太郎が刻んだ石の祠が設置されています。
浅間神社の富士塚(階段上)
江戸時代後期にできた『新編武蔵風土記稿』にはこの富士塚の記事はありません。
明治時代初期に編纂された『武蔵国郡村誌』には八王子村の中に「富士塚」という小字を記していることから、この浅間神社の富士塚は江戸時代末期から明治時代初期にかけて築造されたものと考えられています。
現に、浅間神社の富士塚にあるもので明らかに江戸時代のものは石段左側にある万延元年(1860)の「猿田毘古大神」と彫られた石碑のみで、石工井原赤太郎も江戸時代末期から与野で活躍する石工です。
「浅間祠」裏面に彫られた「石工 井原赤太郎」の文字
一方、与野公園のスリバチ山は高さ約9mで、弁天池に隣接しています。
形状からそう呼ばれる山の斜面南側に、沢田屋平左衛門という人物が寛政12年(1800)から安政4年(1857)までの58年間に富士登山を58回した記念に建立した幕末安政7年(1860)の石碑が残されています。
つまり、計算上、寛政12年から毎年1回、欠かさずに富士山に登っていたことになります。
58回も富士登山した情熱や信仰心はどこから来たものなのでしょうか。ただ単に、そこに山があったから?
このスリバチ山がいつできたのかは不明ですが、スリバチ山を造ったときにこの石碑を建てたという伝承があり、その時点(江戸時代末期)では富士塚として認識されていたと考えられます。
また、かつてはこの山の中腹に、頂上に登らずにこの道を一周すればよいといわれた「お中道」という道があったといわれています。
スリバチ山(与野公園)
「富士登山五十八度」の碑(スリバチ山)
これらのことからすれば、与野では江戸時代末期に富士山への信仰が高まったのかもしれません。
与野郷土資料館では富士講に関する展示はしていませんが、『与野郷土資料館開館記念図録』で触れています。
また、富士信仰に関わるお札も収蔵しています。
祈祷札(当館蔵)
教育委員会事務局/生涯学習部/博物館
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